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戦災で焼失した社宝などのご紹介

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御祭神・由緒

御祭神

主祭神 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)

妙義神社の御祭神である日本武尊(やまとたけるのみこと)は、12代景行天皇の皇子であり、勇敢で利発な人物であったと言われています。
日本武尊の力を恐れていた景行天皇は、自らから遠ざけるために九州の熊曾建(くまそたける)兄弟の討伐を命じました。
 平定の旅に出た日本武尊にとっては苦難の連続でしたが、
伊勢神宮の斎宮であり日本武尊の叔母でもある倭姫命(やまとひめのみこと)から与えられた着物で女装をし、敵を油断させることで見事に勝利し、平定を成し遂げました。
日本武尊の名は、もとは小碓命(おうすのみこと)また倭男具那王(やまとおぐなのみこ)といいましたが、敗れた熊曾建から「これからは、ヤマトタケルノミコと称えましょう」と名前を贈られました。

  • 相殿神(あいどのしん)
  • 高御産霊神(タカミムスビノカミ)
  • 神功皇后(ジングウコウゴウ)
  • 応神天皇(オウジンテンノウ)

由緒

日本古代史における伝承上の英雄 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、当時東国にいた民族である蝦夷を討つために東征した際、この妙義神社がある場所に陣営を構えたと伝えられています。
日本武尊が東征した後、この地に社が建てられ、日本武尊が白鳥に生まれ変わり飛び立ったという伝説から、白雉(はくち)2年(651)5月12日、白鳥社と号しました。
豊島区内では最古の神社として伝えられています。

また、「新編武蔵風土起稿」※によると、最初に江戸城を築いた室町時代後期の武将 太田道灌は、文明3年(1471)5月、古河公方 足利成氏との戦に出陣する際、当社に参詣し、神馬、宝剣を寄進し戦勝を祈願しました。
その時、近臣である樋口与三郎兼信と次のような連歌を詠んだと伝えられています。

雲はらふ この神垣の風の音 (道灌)
草をも木をも 吹きしほり行 (兼信)
  ※「新編武蔵風土起稿」・・・文化・文政期、1810年から1830年にかけて編纂された武蔵国の地誌。
  ※神垣・・・神社を囲い神域と他を区別する垣。

道灌はこの戦に勝ち凱旋した際、当時の通貨である15貫文を社領として寄進しました。

その後、文明9年(1477)春、平塚城(現在の東京都北区上中里)を拠点とし関東管領上杉家に反旗を翻した豊島勘解由左衛門を討伐する際や(長尾景春の乱)、同11年(1479)春、室町幕府に造反した千葉孝胤を攻める際にも道灌は当社に必勝を祈願し、見事勝利を収めました。
この様なことから、当社は当時から「勝負の神様」「戦勝の宮(みや)」と呼ばれ、人々よりあつい信仰を集めました。当時、当社境内には稲荷山という小高い山があり、道灌は稲荷山に立ち豊島氏の平塚城を望みながら戦略を考えたのではと思われます。

太田道灌公 騎馬像
太田道灌公 騎馬像(芳林寺:埼玉県さいたま市岩槻区)

かつて当社には、道灌の木像や道灌が奉納した宝剣、古文書・古記録など様々な社宝がありましたが、残念ながら、昭和20年(1945)4月、太平洋戦争末期の空襲により、社殿・社務所とともにすべて焼失しました。

戦後になり、昭和40年(1965)3月に、現在の社殿を造営、続いて、同41年12月に社務所を落成しました。
また、社殿の右側にある末社・道灌霊社には太田道灌公が祀られています。その道灌霊社と並んで建てられている庚申塔は寛永19年(1642)11月の造立で、現在は豊島区有形文化財に指定されています。